教会の歴史

片瀬教会の始まりは明治24年(1891年)の夏、ヘンリック神父と片瀬地方の山本庄太郎氏との出会いが、ご子息信次郎氏の受洗という形で芽生え大正8年に山本家の一部屋に仮聖堂が設けられ、ミサが捧げられた時までさかのぼります。

 

「暁の星なる聖母」
右の絵は「暁の星なる聖母による祈り」を主題にした作品です。
イタリア人女流画家「フランキ・ムッシーニ」によって描かれました。
この祈りは山本信次郎氏が1915年ローマ滞在中、日本でキリストが受け入れられるように願い、依頼した祈りを基にしたものです。

  • 輝ける暁の星なる聖母よ、あなたはかつてこの地上に現れ、正義と真理との太陽なるイエスをわたしたちに与えてくださいました。
    どうぞあなたの光をもって日本の人々を照らし、速やかに心をひらき、永遠の光である御子イエスを信じることができますようにお祈りください。

    アーメン

暁星学園と信次郎氏の受洗

1891年(明治24年)フランスに本部のあるマリア会のヘンリック神父は、避暑の為に過ごす別荘を海辺に求め、偶然門を叩いたのが当時この地域一帯の開発をしていた片瀬海岸の山本庄太郎宅でした。

この出会いによってマリア会の経営する暁星に学ぶことになった子息・信次郎氏は、1893年(明治26年)に暁星学園で受洗しました。
この受洗から片瀬教会設立への歩みが始まったといっても過言ではないでしょう。

信次郎氏は1918年(大正7年)に学校を卒業後、海軍軍人とし働きイタリア大使館海軍武官在任を終えて帰国する際、教皇庁と日本の関係における信次郎氏の働きにたいして時の教皇ベネディクト15世聖下より、自宅において聖堂を設けて聖体を常置する特別の許可を与えられました。

1891年(明治24年)フランスに本部のあるマリア会のヘンリック神父は、避暑の為に過ごす別荘を海辺に求め、偶然門を叩いたのが当時この地域一帯の開発をしていた片瀬海岸の山本庄太郎宅でした。この出会いによってマリア会の経営する暁星に学ぶことになった子息・信次郎氏は、1893年(明治26年)に暁星学園で受洗しました。この受洗から片瀬教会設立への歩みが始まったといっても過言ではないでしょう。信次郎氏は1918年(大正7年)に学校を卒業後、海軍軍人とし働きイタリア大使館海軍武官在任を終えて帰国する際、教皇庁と日本の関係における信次郎氏の働きにたいして時の教皇ベネディクト15世聖下より、自宅において聖堂を設けて聖体を常置する特別の許可を与えられました。

自宅の仮聖堂から片瀬教会設立へ

1924年(大正13年)片瀬転居を機に山本家の自宅でミサをあげるようになりました。
その後シャルトル聖パウロ修道女会付属のチャペルへと引き継がれるまで、およそ10年間にわたって仮聖堂としての使命を果たしました。その後1937年(昭和12年)東京教区から分離独立、横浜教区が新設され湘南地区に教会が必要になり、片瀬に新たな教会が新設されることになりました。
初代横浜教区長であったシャンボン大司教は、全国でも珍しい純日本風の建築様式を望まれたそうです。

1939年(昭和14年)の3月19日の聖ヨゼフの祝日にシャンボン大司教司式の下、片瀬教会献堂式は行われました。
また新たな教会の祭壇と壁には、当時鵠沼に住んでいた長谷川路可画伯(国内外に多くの宗教作品を残したカトリック画家)の掛け軸が2枚と14枚の「十字架の道行」の絵が飾られています。
(長谷川路可の詳しい内容はこちらからどうぞ→

初代片瀬教会主任司祭リサラグ師は長い間浅草教会にいらした関係で、写真には浅草教会の信徒がたくさん写られています。リサラグ師は献堂式を迎えることなく1937年に帰天されました。また建物も当初はまだ十字架も、屋根のすぐ下の天草四郎の陣中旗からとったとされるカリスと天使もまだ描かれていません。

【初代片瀬教会主任司祭リサラグ師と浅草教会の信徒】

初代片瀬教会主任司祭リサラグ師は長い間浅草教会にいらした関係で、写真には浅草教会の信徒がたくさん写られています。
リサラグ師は献堂式を迎えることなく1937年に帰天されました。
また建物も当初はまだ十字架も、屋根のすぐ下の天草四郎の陣中旗からとったとされるカリスと天使もまだ描かれていません。

教会の改装と増築

1955年(昭和30年)当時は司祭は信徒に背を向けてミサを行っており、祭壇にも柵が設けてありました。
写真は初聖体の為、信徒は特別に祭壇内に入っております。
天井も寺院風の格天井とし、祭壇の両側に床の間を造って日本風にしてありました。
また教会正門も山本橋掛け替え工事の為、1922年に門を現在の位置に移されております。

1964年(昭和39年)には新たに結成された聖歌隊の為に2階が造られましたが、1988年聖堂拡張の時に2階は撤去されました。また3年後の1967年(昭和42年)の10月に祭壇部分が広く造り直されました。荒井司教様の司式のもと聖堂増築祝別式が行われております。

当時の教会行事

昭和20年代頃の洗礼式と
聖体行列の写真です。

【1947年(昭和22年)洗礼式】

【1953年(昭和28年) 聖体行列】

ご聖体を奉持し、教会と湘南白百合学園周辺を一周しました。

司祭館の移動と信徒会館の設立

敷地の中央にあった司祭館を現在の場所に曳家(ひきいえ)して移し、中央に信徒会館1階部分を建てました。
その後1984年(昭和59年)に2階部分を増築し現在の形になりました。

聖堂入口の拡張工事と十字架

1988年(昭和63年)に聖堂入口の拡張工事が行われました。

通常教会の屋根には十字架が立っていて一目で教会と分かります。
当初は寺院風の建物であった為、軒下に十字架を作りましたが、拡張工事に伴い入口の屋根の上に十字架が作られました。
※軒下の十字架の下にある模様は天草四郎の陣中旗の図柄を真似て描かれています

歴代の主任司祭 出身司祭とシスター

当教会の主任司祭と出身司祭・
シスターを写真でご紹介。

片瀬教会主任司祭

片瀬教会出身の司祭とシスター

信次郎氏受洗100周年

1995年(平成7年)信次郎氏受洗100周年を記念して、庭の一隅にすべての人に平和が与えられることを祈って「暁けの星なる聖母子像」(親松英治氏制作)が建てられました。

近年の信徒の増加により建物は建築当初から形を変えているところもありますが、そのほとんどは形を残し現在も大切に受け継がれております。

大きな戦争を乗り越え今なお当時の形が残る片瀬教会は、これからも信徒の拠り所としてまたカトリック伝道の歴史を語る文化遺産として大切に受け継がれていくでしょう。

1995年(平成7年)信次郎氏受洗100周年を記念して、庭の一隅にすべての人に平和が与えられることを祈って「暁けの星なる聖母子像」(親松英治氏制作)が建てられました。近年の信徒の増加により建物は建築当初から形を変えているところもありますが、そのほとんどは形を残し現在も大切に受け継がれております。大きな戦争を乗り越え今なお当時の形が残る片瀬教会は、これからも信徒の拠り所としてまたカトリック伝道の歴史を語る文化遺産として大切に受け継がれていくでしょう。

長谷川路可作品

長谷川路可(1897~1967)は大正・昭和にかけて活躍した日本画家です。
特にカトリック美術家として宗教画を制作しております。
ヨーロッパ滞在中に学んだフレスコ壁画を、日本で初めて東京のカトリック喜多見教会に制作しました。
幼少期に鵠沼で育ったことや同じ暁星学園出身の山本信次郎氏との関わりから、片瀬教会献堂の際に掛け軸・十字架の道行などの内装を担当しました。

彼の芸術生活最大の仕事はイタリアのチヴィタヴェッキアにある教会の壁画制作です。
チヴィタヴェッキアはローマから北に80キロ離れたところにある港町で、支倉常長が長旅の果てに初めてイタリアに上陸した地であり日本との関係がとても深いです。
そこに縁あって「日本聖殉教者教会」(長崎殉教者二十六聖人が列聖された記念)が建立されその壁画を彼が担当しています。
イタリアの地で日本の桃山時代の着物姿の聖母子像を見るのは、驚きと同時に一度は目にしたいものです。

長谷川路可(1897~1967)は大正・昭和にかけて活躍した日本画家です。特にカトリック美術家として宗教画を制作しております。ヨーロッパ滞在中に学んだフレスコ壁画を、日本で初めて東京のカトリック喜多見教会に制作しました。幼少期に鵠沼で育ったことや同じ暁星学園出身の山本信次郎氏との関わりから、片瀬教会献堂の際に掛け軸・十字架の道行などの内装を担当しました。彼の芸術生活最大の仕事はイタリアのチヴィタヴェッキアにある教会の壁画制作です。チヴィタヴェッキアはローマから北に80キロ離れたところにある港町で、支倉常長が長旅の果てに初めてイタリアに上陸した地であり日本との関係がとても深いです。そこに縁あって「日本聖殉教者教会」(長崎殉教者二十六聖人が列聖された記念)が建立されその壁画を彼が担当しています。イタリアの地で日本の桃山時代の着物姿の聖母子像を見るのは、驚きと同時に一度は目にしたいものです。

十字架の道行

十字架の道行とはイエスが不正な裁判を受ける場面から、ゴルゴタの丘での十字架上の死に至るまでの歩みを絵画やレリーフで14場面で描いたものです。それぞれの場面を「留(りゅう)」と呼びます。
当教会の聖堂内に並べて掲げてあり、その場面を黙想しながら祈ります。