8.祈り(2)(2013年8月)

先月祈りについて話が始まって、祈りとは神との対話であり、神の声を聴くことと私達が話すことによって成り立っていると書きました。
先月には、神の声を聴くことはどういうことであるかを申しましたが、今月は神に話をすることについて一言分かち合いたいと思います。

度々、「天におられる私たちの父よ・・・」という祈りを唱えます。神が父であるなら、お父さん又はお母さんと話すのは、難しくないはずです。
例えば、食事をしながらその日の事について自然に話したり、場合によっては親に自分の心配、夢、心にあるものを伝えています。私達にとって、神とイエスに対しても同じことでしょう。神を相手にして、今日あったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、失敗、希望などを表せば、すべて祈りになります。

たいてい私達は、祈りといえば神に何かを求めることだけになっている場合が多いでしょう。福音書には時々、願う祈りについて矛盾しているかのような言葉もあります(マタイ6章7節~8節、マタイ7章7節~11節参照)。

でもそれは矛盾ではなく、その言葉をおっしゃった環境が違っていたので、そのニュアンスも違ってくるのでしょう。しかしイエスがいつも求めていらしたのは、神に対する信頼の心でした。
キリスト信者にとって代表的な祈りはゲツセマネにおいての祈りだと思います。

父よ、もしできることならば、
 この杯がわたしの前を通り過ぎるようにしてください。
 しかし、わたしの思いどおりにではなく、
 あなたのおぼしめしどおりにして下さい(マタイ26章39節)」

つまり、良いと思うことを求めてもよいのですが、最終的に神の御旨になります様にという気持ちが大事です。なぜなら願う祈りは、神が私達に合わせるようにではなく、わたしたちこそ神に合わせることになりますようにと祈るべきでしょう。