8月 「小さな喜びから生まれた思い」

皆さんいかがお過ごしでしょうか。今月のからし種を手にするときは、私はイタリアにある山の村で、のんびり過ごしています。ごめんなさい。
さて今日皆さんと分かち合いたい小さな喜びがあります。ご存知のように毎日何人かの小、中、高校生の子供達はバスケットボールをやるために教会の庭に集まります。しかし教会に対しての関心は全くないかのように見えます。ところがある日、まだ誰も来ていなかった時、一人の男の子はマリア様のご像の前に行って、周りに誰かいるかどうか確かめてから、手を合わせてしばらく祈りの姿勢をしました。そのあともう一回人がいないかどうか確かめて周りを見まわしてからひざまずいてもう一度手を合わせて祈っているような雰囲気でした。私は部屋の窓からその場面を見て喜びました。この教会に来てから14年間が経ちましたが、そのような場面を初めて見ることが出来てよかったと思いました。しかし後になって逆に少し寂しく感じるようになりました。なぜかというと子供たちが持っている宗教心は、宗教を大事にしていない社会の中に生きているので、その気持ちがだんだんなくなってしまいます。残ったとしてもそれを表すのは恥ずかしいことをするかのように思ってしまいます。教会に遊びに来る子供達に、信仰を少しだけでもどうやって紹介すればよいかと度々考えていますが、なかなか解決の糸口みつからないで悩んでいます。数年前子供達と親しくなるために彼らと一緒に遊ぼうとしたところ、突然宇宙人が彼らの中に入り込むような雰囲気で、彼らにとって私の存在はありがた迷惑だったと感じてやめてしまいました。ところがキリスト教は“失敗” (キリストは十字架につけられた)に基づいているので、私達も同じ失敗を通して宣教するのは当たり前でしょう。場合によって成功は傲慢をもたらし、逆に失敗は神のみ手において大事な宝だと言えるのではないでしょうか。そうであれば今日本ではキリストへの信仰が進まなくても、この状態において私たちの信仰をもっと清め、強めるためのきっかけとなるかもしれません。
現代社会では、神がいらないかのように見えても、信じる私たちにとって自分の信仰を深めてもっと強く愛し、もっと熱心に明るく賢くキリストを伝えるような刺激が必要ではないかと思います。