6月 海と魚

ある弟子は先生に「神をどうやって見つけたらよいでしょう」と聞きましたが、先生は「それは誰も教える事はできません」と答えました。「なぜでしょうか」と弟子が聞くと「魚が海を見つけることを誰も手伝うことはできないのと同じ理由です」と先生は答えました。このたとえ話しは、インド特有の雰囲気があるような気がします。全ては神の海の中に包まれているというのがヒンズー教の文化だと思うからです。しかしキリスト教でもそのたとえ話しは当てはまると思います。使徒行録の中で、パウロはアテネの人たちにこうおっしゃいました。『われわれは、神のうちに生き、動き、存在する。』(使徒行録17.28)

“神はどこにいますか”とよく聞かれますが、“子供への母の愛はどこありますか”と聞かれたら、母の愛は子供がいるところにあって子供を包んでいるように、神も私達と共におられて私達を包んで下さっているとたいてい答えます。このようであれば、私達は毎日神が私達と共におられることを意識するのは、祈ることではないかと思います。祈るために言葉があっても無くても構いません。大事なのはうれしい時も悲しい時も普通の時も神が私たちのそばにおられ、私たちを包んでくださるということでしょう。

詩編の中にその気持ちを表すきれいな詩があります。ちょっと長いのでここに全部紹介できませんが、最初の言葉だけを紹介するので、その続きはご自分で是非祈りの気持ちで読んでくだされば幸いだと思います。

主よ、あなたは私を究め 私を知っておられる
座るのも立つのも知り  遠くから私の計らいを悟っておられる
歩くのも伏すのも見分け 私の道にことごとく通じておられる
詩編139 1章3節