11月 罰と復帰

ある日、一人の旅人の前に馬に乗って走っている人が通りましたが、その人の手は血にまみれ険しい目つきをしていました。ちょっと時間がたってから何人かの騎士も通りました。彼らは旅人に、血によごれた人に会ったかどうか聞きました。旅人は「その人は誰なのですか?」と聞くと、犯罪人なのだと答えたのです。また彼は、その人を裁判にかけるために探しているのか聞いたところ、騎士たちは「いいえ、正しい道を教えるために追いかけているのです」と答えました。<br> この物語を思い出したのは、最近新聞で読んだことですが、日本でも死刑という制度が良いかどうかという議論になっているからです。国民の80%ぐらいの人が、死刑に賛成のようですが、現在カトリック教会は死刑の制度を賛成していません。犯罪人が裁判にかけられるのは大事ですが、それだけでは十分ではないでしょう。犯罪人はただ罰を与えたらよいのではなく、復帰するためにも正義に渡すべきでしょう。<br> 聖書には“私は悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル書 18.23)”<br> とあります。どんな時でも悪人に対する神の最後の言葉は、厳しい正義ではなく愛に満ちたゆるしだと思います。<br> 死刑はただ復讐のようなものではないでしょうか。昔は正当防衛の理由で、教会も死刑にすることによって、犯罪が減ると思っていたのです。しかし実際は死刑があったとしても犯罪は減ってはいませんでした。そして、罪を犯す人は自分の責任であると同時に、このような人を育てた社会にも責任があると思います。<br> ですから犯罪人を殺せば責任を果たしたと思うのは大間違いだと思います。社会は自分の責任を果たすためにも罪を犯した人を立ち直らせる努力をすべきではないでしょうか。裁判も刑務所もただ罰を与えるだけではなく、人を立ち直らせるためにあるべきではないかと思います。<br> 皆様はそれについてどのように考えていらっしゃるでしょう。