10月「泉にわき出て 流れる水のように」

「泉にわき出る水は、流れるためにあるでしょう。そこに留まれば水溜まりになり、そして少しずつ沼になってしまいます。命を与える為に、水は流れるべきでしょう」
ある本で読んだこの言葉は、宣教にも当てはまると思います。自分の中に留まっている信仰は、沼のようになりやすくて、誰にとっても役に立ちません。

しかし宣教は宣伝と大きく違っています。宣伝は目立てばよいのですが、宣教は逆に沈黙、反省、祈りの中から生まれ、自分の血と肉になり、キリストに夢中になって初めて宣教らしいことが生まれます。誰かが、「この言葉は司祭とシスターのためですか?私たち信者にはあてはまりません。」というならば、大変悲しいことです。どんな立場であろうとも、洗礼によってキリストと共に生き、キリストと共に行動するのは当たり前なのです。それぞれ与えられたところで、それを目指していくべきでしょう。

例えば今年3月に、パキスタンのイズラマバードで少数宗教民族の大臣だったShahbaz Bhatti氏が殺されました。その数日前に家族への手紙の中に、次のような事を書いていました。

「キリストのために生き、キリストのために死んでもよい。・・・・命ある限りイエスと貧しい人、迫害される人、少数宗教の人などの為に一生懸命尽くしたいのです。」

宣教はそのような心から生まれるのでしょう。
今月の23日は、全世界のカトリック教会で宣教の日になっております。Bhatti大臣のような精神を育てたら、どんな立場に置かれてもきっと素晴らしい宣教が生まれてくるようになるでしょう。