洗礼にあたって  K.Tさん

洗礼の秘跡に与る事ができた事、皆様には感謝の念に堪えません。
私がキリスト教に出会ったのは2年前の夏、藤沢北教会の合同祈祷会でした。誘われるまま参加した会で出会ったマリオ神父様は、カトリックとプロテスタントの確執や今後のキリスト教の進むべき道を実直に語られ、驚きと共に深い印象を受けたものの、踏み出すことはありませんでした。

その年の冬、妻が片瀬教会を訪れた時、私も感じる処があり同行し、一歩踏み込む気持ちで聖書講座にも参加しました。 聖書講座ですぐ感じたのは、信仰無しには聖書は理解できない事、キリスト教とは何かということでした。マリオ神父様の教えの基、ミサに参加し、キリスト教とはキリストに出会いを求める事、そしてキリストに出会うには、祈り、聖書、教会に加わる事、更に信仰は、聖体拝領を通してキリストと一致する事で生まれる物ではないかと思うようになりました。
そんな中で少しずつ洗礼を意識するようになり、自分のなかで洗礼の資格とは何か考え始めました。まだその時期には、使徒信条、神への愛、隣人への愛の理解、実践なくして洗礼の資格はなく、自分には縁遠いものと感じていました。今思えば汗顔の至りですが、自分への奢り、へりくだりの気持ちの欠如ゆえの考えでした。

自分の奢りとは、聖書もキリストへも対峙した形で接し、吸収できる事が自分にとって前進する前提と考えた事でした。中に入り、素直に自分を委ね、導くままに生きようとする気持があれば、信仰に踏み出していいと思えるようになったのは最近の事で、マリオ神父様に教えて頂きながら一年間聖書を学び、ミサに与った自分への神の導きだと感じています。
私は洗礼に与りキリスト者となる事ができました。しかし、未だ多くの迷い、疑問の中で生きています。こんな私ですが代父の方に迷ってもいい、迷いながらも歩めば神が導いて下さると言って頂けます。信仰の扉を開いて頂いたばかりの私には、神の導きと愛は感じられても代父の方の様に、神の慈しみの中で生きている実感には至っておりません。

 これからの歩みは、皆さんに支えていただきながら一歩一歩進んでいきたいと思います。そして主に信じることが出来るように助けてくださいと祈ってまいります。そうすればいつか本当のキリスト者になれると信じています。