怠りの罪とタレントの意味 M.S

2012年2月から1年間マリオ神父様の聖書入門講座を受け、翌年2013年の3月に洗礼を受け、昨年の5月に堅信の秘跡を受けました。毎週、日曜の朝7時のミサに通うことが週課になりました。
私がキリスト教に初めて本格的に触れたのは、東京のミッション系の大学に通っている時でした。必修だった宗教学の講義の中で、内村鑑三の「世はいかにしてキリスト信徒となりしか」という本を読まされ、その内容に深く共感を覚えました。
私の両親は、ある新興宗教の信者で、私は中学・高校一貫の全寮制の学校に入れられました。そこで、その宗教は、人生をいかに芸術していきるかということが教義の主体になっており、こころのあり方が病気をつくっていること等を教えていました。それなりに生きていく上で役立つ考え方や行動の仕方を学びましたが、教団の組織運営のやり方に疑問をもつようになり、高校を卒業した後、私はその教団から離れていました。
内村鑑三の本を読んで、信仰は、個人で神と向き合えばいいのだと思うようになりました。ドストエフスキー等の小説が好きで、唯心論的実存主義という哲学にも興味を持ち、大學の先生からロシアの哲学者ベルジャーエフの著作を借りて読んだりしていました。
大學を卒業後、自動車会社に就職し、翌年、結婚、2人の男の子を授かりました。妻はクリスチャンで、息子2人にも幼児洗礼を受けさせましたが、私は、その頃は自分が洗礼を受けようという気持ちにはなれませんでした。信仰に、洗礼という儀式は必要ないという、傲慢不遜な考えをもっていたのです。
企業勤めが長くなるうち、企業の利益追求、生産性や効率の向上等を常に優先して考えるような癖が身につき、神と向い合うことなど忘れていきました。会社の仕事で、イギリスとフランスにも駐在する経験を持たせていただき、その間いくつか欧州の有名なキリスト教寺院を訪れたりしましたが、それは偉大な文化遺産を鑑賞するためでした。
そんな私が、またキリスト教に戻ってきたのは、3年半前に長男を失ったことが、きっかけでした。息子の葬儀の時、マリオ神父様のお世話になり、その暖かい人柄に励まされました。息子の死によって、私の心の半分は一緒に死んでしまっていました。教会や聖書入門講座に通うようになったのは、息子への追悼の気持ちと自分の心の穴を埋めるためですが、受洗し、3年たって。死んでいた自分の心も復活させていただけたのではないかと思って、感謝しています。
私は、人生では、正しい行いをすべきだと思っていました。そう思って生きていれば罪を犯すことはないと信じていました。しかしミサのお祈りの中で罪は、「思い、言葉、行い、怠り」によって犯すものだと知りました。怠惰な自分は怠りによる罪をどれくらい犯していたことか。
言うべきことを言わず、してあげるべきことをしないのは罪なのです。タレントという才能という意味を持つことばもともとはイスラエルの通貨で聖書から出た言葉だと知りました。神から与えられたタレントを磨き、高め、社会に役立てないのもまた罪なのです。最近、私はこのように思い、日々お祈りを捧げながら、毎日を送っています。