平穏と希望  E.M

昨年1月より聖書入門講座を受け、今年4月に受洗致しました。当初は洗礼まで考えていた訳ではなく、これからの生き方で何か指針になるものを探し、週に一度考える時間を持つのも良いかな位の気持ちでした。

昨年12月のクリスマスミサに与り、それ以来勉強会の前に御聖堂に入り、自分なりに短い黙想の時を持つと、不思議なほど平穏な気持ちになりました。その後間もなく「洗礼を受けませんか」とお誘いを受け、マリオ神父様のお人柄に導かれるように洗礼、堅信と進んで参りました。「あなたが私を選んだのではない 私があなたを選んだのである」入信志願式でこの言葉を聴き、本当に神に導かれたのだと思いました。以前友人から「あなたは周囲の人に恵まれているのね」と言われたことがありました。その時は「あなたもその周囲の人の一人よ」と笑って終わりました。自分ではおかれている環境が日常であり、当然のこととして受け止めていましたが、今思えば何か難しい局面に当っても誰かが手を差し延べて助けて下さっていた気がします。その救いの手を導いて下さっていたのが神のお恵みであったのだと感じています。ロザリオを手に祈り、「許しを受けなければいけない事をしていないか」「身の廻りに起きた事で神の救いの手を忘れた時がなかったか」と黙想していると、とても穏やかな心の平安が拡がってきます。

洗礼を受けた日の帰途、奥様が亡くなられる時に「何故あんなに穏やかな顔で神の元に召されたのか不思議に思って教会に通い、洗礼を受けたのです」とおっしゃる方に声をかけて頂きました。9年前に病の告知を受け治療しましたが、3年前に再発し、お医者さまから「完治は考えないで、これからは共存を考えて下さい」と言われており、いつとは判らないものの、いつか来る日を漠然と考えていました。そのこともあり何か指針を求めて聖書入門講座に眼が止まったのかもしれません。マリオ神父様のその日が来ることが「神の元へ行ける希望」というお話を聞き、奥様の穏やかなお顔の意味が少しわかった気がします。

洗礼を受ける際も、代母さんは?洗礼名は?とすべてマリオ神父様に負んぶに抱っこ状態で迎い入れられ、教会の皆様にとても温かく気遣って頂き、心安らぐ刻に恵まれております。

まだ聖書の通読もできておらず、本当に初心者ですが、キリストにならい、聖人にならい、教会の皆様にならい、少しでも信仰を深め、より強く平安と希望を感じられる日々を迎えたいと思っています。「後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進みなさい」(フィリピ3.13)を心に、神のお導き、教会の皆様のお導きを祈りつつ一日一日を送って参ります。

神に感謝