キリストの愛に導かれて T.I

我が家は妻と二人の娘は早く洗礼を受けました。私はカトリックには全く関心なく、妻も私に洗礼を強要することはありませんでした。私は本棚にある聖書も手にすることもなく、開いたこともありませんでした。今、思い起こせば、妻が私にカトリックの話をしても関心を示さないのをわかっていてそれ以上何も言わず、会社人間だった自分の夫がいつの日か必ず理解してくれる日が来ることを信じていたと思います。私はそのような人間でした。

2011年7月1日暑い日でした。妻は私の右手を握り、左手には娘がかけたロザリオを胸に、だんだん意識が薄れていく中で、その顔は穏やかな微笑みさえ浮かべているような、苦しむことなく安らかな顔をして神さまに召されて、午前0時26分、眠るように帰天いたしました。

私は妻がイエス・キリスト様を信仰していた、そのことが人は死を前にして恐れずあんなに安らかに迎えられることができるキリスト教とはいったいなんだろう。神さまの力か、イエス・キリスト様の愛か、私はその時からキリスト教をよく理解し知ることが、妻の安らかに死を迎えた時の心の内を見ることができるのではないかと思いました。妻の病床に2度もマリオ神父様が来て下さり、病者の秘跡の祈りをしてくださいました。
後3ヶ月と宣告され(妻は知りません)、残された3ヶ月を穏やかな病床生活で過ごすことができたのも、病者の秘跡の祈りによってキリスト様の愛、そして祈りをささげてくださったマリオ神父様の愛の恵みをいただいたからではないかと、そしてもう一つ片瀬教会に於いてマリオ神父様司式により、美しい聖歌の歌声のなか、厳かに粛々と進められる葬儀に私は今までにない感動を覚えました。

この3つのできごとによって、まったくカトリックに無関心だった人間、私をその道に一歩踏み出させたのです。しかし、カトリックを知るためにはどこから進んでよいのか解りません。まず、教会に行くことだと考えました。80余年の人生で一歩も教会に足を踏み入れたことがない私は多少の不安がありましたが、幸いクリスチャンの娘がいましたし、皆さんの心温かいお言葉により、安心してごミサに通うようになり、その一週間が心穏やかに過ごせるようになってきました。これも神さまの愛の恵みの力なのでしょうか。そして昨年1月、勧められてマリオ神父様の聖書講座を受けることにしました。

「キリスト教の聖典」を学ぶことによって神さまの言葉の豊かな恵みを知ることができるのではないかと、一年間勉強しました。まだまだ本当の聖書の心がつかめません。 しかし自分の座右の書として読み続ける事により、だんだんわかってくるのではないでしょうか。
こうした一連のことがあり、昨年の6月妻の1年目の追悼ミサを行っていただいたとき、私は誰に相談することなく自分で受洗することを心に決め、妻に報告し決意しました。

今、神に召され天国にいる妻が、「パパ、やっぱり私と同じ道を歩いてくれますね、ありがとう」と言っている声がきこえてくるような気がします。