『信仰』とは『天国への憧れ』 M.Y 

私は幼児洗礼で、しかも幼年期は日常生活の近くに神父様やシスター方が沢山おられ、日々の遊び場の中に聖堂もあり日曜日のミサでは当然のように侍者をしていましたのでそれらが当たり前だと思っていました。小学生の頃、昔は外の道路にも聖体行列を行っていましたので、侍者服を着た私を見た友人から『赤いスカート着ていただろ!』とからかわれた事もあり、私が皆と違う環境に居る少数派である事を実感していました。

しかし、私にとっては余りにもカトリック教会の空気が当たり前の日常であった為、深くその意義を考えてはいませんでしたが、高校生の頃に人生や社会、世界の構図について深く考えていた時期に、祖父の終油の秘跡と受洗があり、その死に立ち会い感銘を受けました。父方の家族で祖父だけ最後まで受洗をためらっていました。祖父は当時としては外国語も堪能で石油関係の仕事をしていた為、海外にも精通していて比較的先進的な考え方を持っていた祖父では有りましたが、受洗をためらっていた理由が代々受け継いだ仏式のお墓を自分が受洗する事で継げなくなると悩んでいたようです。

個人主義、核家族構成の現代の私たちにとってはそんな事で?と思われますが、明治生まれの祖父にとって、自分より家系の行く末を案じていたようでしたが、神父様との話もあり受洗後は心から安心して亡くなり、結果として新たにカトリック教会墓地に眠っています。

親族のカトリック信者へのきっかけは父が初めて受洗した事から始まり叔母、叔父、祖母、祖父と順次受洗されて行きましたが、その父が亡くなる時も天国へ憧れるように穏やかに旅立って行った事が印象的でした。

また、『信仰』と言う言葉で思い出す事としては、母方の祖母の祈りの姿を思い出します。古い家で仏壇が有り、その隣の部屋の床の間に十字架とマリヤ像が有りました。祖母は毎朝、仏壇に向かい一心不乱にお経を唱え、終わると隣の床の間に座り直し、今度は主の祈りと天使祝詞(アベマリヤの祈り)を本当に熱心に祈っていた姿が忘れられません。宗教の教義から見るとおかしいかも知れませんが、信仰とは学問では無く、純粋に信じ切る事と思います。

私の信仰とは、突き詰めると『天国への憧れ』という事になります。確かに『生きる喜び』も有りますが、実は『死ねる喜び』もある事に気が付いている人は少ないのでは無いでしょうか?